文芸賞
部門: 短編小説
表題: 表替え
受賞者: 四万十市 岩合可也
偶(たま)の梅雨晴れだった。
文乃は朝食後の片付けが済んだばかりで、 縁側に出ると、 丁度南面の塀の向こうに、 車が止まるところだった。 車から下りたのは、 丸ちゃんこと丸岡だった。 彼は西の玄関には回らず、 いつものように東南の角の出入口から、 勝手を知る居間の方に来た。
「今年も露地物がやっと熟れた」
千切り立てだと丸岡は、 トマトの入ったビニール袋を、 文乃に手渡した。 彼女は掃き出しのガラス戸を、 引き分けにいっぱいに開いた。 いつも長居をすることのない彼に、 縁側の上がり端(はな)に常用の座布団を勧める。 文乃の夫の広は、 食後の一休みだと居間でごろりと横になっていた。 かなり耳の遠くなっている彼だが、 気配を感じたのか顔を覗かせた。
「おお 丸ちゃん」
丸岡は広の幼馴染みだった。 彼は高校を卒業すると直ぐから、 家業の畳屋を手伝った。 そして、 当然のように後を継いだ。 彼は小学生の時分から、 上背もあり押しがきいて、 同じ町筋に暮らす仲間の大将だった。 時々広が“ぼくらは家来で はいはい大将と従い くっついていた”とおもしろがって冷やかす。 “そんなことは なかった あるもんか”丸岡は決まり悪そうでいて、 満更でもなさそうに笑うのだった。
広と文乃が、 公団の売り出した団地に家を建てて四十年近くなる。 丸岡と同じ市に再び住み始めてからずっと、 畳のことは彼に任せている。 それを機に、 しばらく遠退いていた彼等の付き合いも、 昔に戻っていった。 広と呼ばれ、 丸ちゃんと呼ぶ。
「広よお前 この頃体の調子はどうぜよ」
「変わったことはないけんど 腰は痛い」
「歳も八十になったら 無理は利かん」
丸岡はもともと大柄で、 がっしりした体格だった。 その働き盛りには、 軽々と畳を扱い家具類もひょいと退(ど)けていた。 ところが、 健康診断でまさかの血糖値が境界線上と分かって、 減量に努めてきた。 げっそり痩せて、 太り肉だった肉が刮(こそ)げてしまった。
「広よ 何ともならんようになったぞ」
「丸ちゃん何を言うぜ まだまだ」
強がってはいるが、 広も耳は遠くなるし、 あちこちの節々も痛み、 堪え性のない彼は動く度に、 あ痛たあ痛たと呻いている。
縁側に腰掛けた丸岡を挟み、 広は左であぐらをかき、 文乃は右に正座していた。 広と丸岡は毎度の、 てんでに聞き及んでいる同級生の誰彼の様子を、 出し合い話に始めた。 二人は、 ほうと感心したり溜め息混じりに嘆いてみたりしている。
文乃は、 丸岡がそれとなく部屋の畳に目を走らせていることに気付いていた。 彼女は妙に恥じ入る思いだった。 床の間と居間の畳は前回の表替えから六年余りたっていた。 次の表替えの時期はとうに過ぎていた。 とりわけ居間の方は畳表が所々すり切れ、 あちこち毛羽立っている。 広も文乃もそれが目に付いて今年こそは表替えをしなければと、 再々話もしていた。 しかし、 足腰に弱みを持つ二人は家具の移動が億劫(おっくう)で、 おいそれとは決めかねていた。 怠惰に先延ばしにしてきた。 そんなだらしなさを、 丸岡に見透かされているようで、 彼女はだんだんくすぐったくなった。
「見っともないでしょう」
文乃は黙って居られなくなった。
「これ以上表が傷むと 裏返しは利かんようになる」
丸岡の一言は決定的だった。 梅雨が明けたら表替えをしてもらうことになった。
文乃は、 家の畳の傷みは速いと、 日頃から広に文句を言ってきた。 二十年昔、 彼が停年退職した頃、 彼女は重い変形性股関節症で往生していた。 はげしい痛みとひどい跛行で、 家事にも難儀をしていた。 それを見兼ねた彼が、 掃除機をかけるようになった。
文乃は手解きにやって見せ、 掃除機は畳の目に添わせてかけてくれるよう、 広に念を入れた。 彼は初めから全く聞く耳を持たなかった。 縦だとか横だとか一々気を配る、 そんな面倒臭いことは、 御免被るだった。 畳目に並行であろうと逆らおうと、 どれ程の違いもあるまい。 取るに足りないささいなことは、 成るように成れ、 その時はその時、 文乃を煙に巻く広の口癖だった。
広は、 掃除機が仰向けに転がろうが、 しばらくそのまま引き摺り回すので、 畳表は縦横斜めに擦り傷だらけになる。 文乃は彼の好い加減を目にする度に、 口が酸っぱくなるほど注意をしてきた。 それでも彼はまるきり意に介さない。 甲斐の無いことを知りながら、 彼女も見て見ぬ振りはできない性分で、 ついこだわってしまう。
愚痴を零す文乃に彼女の姉は“してくれているだけで 有難いと思わんと 少々のことは見過ごすことよ”と。 それもそうだ。 おかげで楽をさせてもらっているのだからと、 文乃も思わないでもないのだが。
おおよその事情を知る丸岡は、 近所に来たからとか、 仕事帰りだとかと立ち寄り“広よ掃除機の使い方を上手にせんと 畳はわやぞよ”彼には畳が粗末にされるのは、 我慢ならないのだ。 見るに忍びんと言わんばかりに口惜しそうに、 広に忠告をする。 その都度広は彼にとっては確かな約束のできない相談で、 生返事でずっと濁してきた。
広はなかなかのきれい好きではある。 気が向けば日に何度でも掃除機を動かしている。 この頃では毛羽立った畳がいっそう毛羽立って、 埃っぽくなる。 すると掃除機の出番が多くなり、 悪循環にすっかり陥っていた。
梅雨明けから数日して、 丸岡が軽トラックで彼らの家にやって来た。 今回の表替えは、 めったに上がることのなくなった、 二階の二間はそのままにして置くことにした。 下の六畳の二間分を頼むことになった。
広と文乃は、 丸岡になるだけ手間取らせまいと、 二部屋の家具を朝の早いうちに、 あらかた片付けていた。 座卓を廊下に立て掛け、 整理箪笥は軽くして動かし易く、 抽出を納戸代わりの三畳の間に積み重ねた。
三人で家具を持ち上げてはずらす。 丸岡は畳の敷き鉤(かぎ)を畳の縁(へり)近くに、 ぐさりと突き刺し床から引き剥がしていく。 そしてその鉤を畳の裏に打ちつけ、 小脇に畳を凭せ掛けて運ぶ。 彼の懸命に踏み締める両足が、 よろよろと心許ない。
「丸ちゃん 大丈夫か」
思わず広が声をかけた。 駆け寄って手を助けようにも、 足腰に自信のない彼は、 おろおろしているだけだ。
「まだこればぁのことでは へこたれん こればぁのことでは」
丸岡は力(りき)んで半ば自分にそれを納得させ、 半ば自分を励ましている。 文乃もじっと見守っていた。 なまじ下手に広と文乃が手出しをすると、 かえって畳の釣り合いを崩し、 彼の足手まといになる。 十二帖の畳が運び出される間、 広は“大丈夫か 大丈夫か”と繰り返した。 トラックの荷台にきちんと収めたそれに、 ロープを渡し終えると、 丸岡もやっとほっとしたようだった。
丸岡は、 一間分は今日のうちに仕上げて来ると、 急いで帰っていった。
広も文乃も妨げになった家具を、 ほんの少しずらす手伝いをしただけだったが、 ぐったり疲れていた。 これまでの五・六回の表替えは、 たいした苦もなく済ませた。 何でもなかったことが、 いつの間にか重労働になってしまっている。 二人は廊下に足を投げ出し、 へたり込んでいた。 粗削りの板敷きが剥き出しになった部屋は、 さっきまでと一変して荒び奇妙に余所余所しい。 庭では木斛の葉が、 梅雨明けから急に強くなった日射しを浴びて、 照り映えている。
二日掛かりで十二枚の畳がきれいになる。 丸岡は運び出す時よりきびきびと、 手際良く隅から敷き詰めていく。 馴染むように、 畳と畳の合わせ目を、 踵でとんとん踏み付ける。 一帖一帖落ち着く毎に、 箪笥や三段ボックスを、 元の位置に据え直した。
畳を敷き終えた丸岡と広が、 縁側で寛いでいる間に、 文乃は三畳の間に昨日取り出していた抽出を、 整理箪笥に入れ戻した。 収まるものがいつもの場に収まって、 がらんどうのようにうらぶれていた部屋に、 生気が満ちた。
今回の表替えは裏返しではなく、 表を新しくしたので、 その分藺(い)草(ぐさ)の香りも一段と強く放っている。
「藺草のにおいの なんといいこと」
文乃は殊更に鼻をひくひくさせながら、 丸岡と広の話の中に加わる。
「それが この藺草のにおいを 嫌う人もおるがよ」
「そんな人も居るんですか 何とかと畳は新しいほうが良いとか」
「どなた様より 古女房よ のう広」
丸岡は、 彼にとっては一(いち)の相棒である敷き鉤を右手に確かめて、 ゆっくり腰を上げた。 彼は二間の部屋をかわるがわる愛おしげに見渡し、 満足そうににっこりした。
「広よ 大事にしてくれよ これがわしの最後の表替えじゃけん もうこの次の五年先は 堪(こた)わん」
丸岡のさっきまでとは打って変わった、 しんみりした話に、 広はうろたえていた。 丸ちゃん心細いは、 ぼくも同じよ。 だけんど、 だけんど……突き上げてくるものはあっても、 口には出せない。 余りにも淋しい。
丸岡は帰りかけてもう一度振り返り、 新畳を眺め回した。
「八十五になるけんのう 五年先は」