文芸奨励賞
部門: 短編小説
表題: さよならダビッドソン
受賞者: 高知市 柴田由
道沿いに植えられたアメリカフウが鮮やかな茶に色付いている。 通勤途中のこの場所がこの季節、 こんなにも美しい木々に彩られているとは今まで知らなかった。 アメリカフウの上空には雲一つなく澄みきったオレンジ色の秋の夕暮れが広がっている。 去年までは車のルーフに遮られて、 見えなかった景色だ。 原付だと少しヘルメットが邪魔になるとはいえ、 視野の広さは車とは較べものにならない。 だから気付けた風景だ。
馬鹿な政治家か官僚が近々、 原付の税金も上げようと考えているらしい。 庶民の足に多少上乗せしたところで、 国や自治体の財政赤字には焼け石に水だろうに。 そんな小さな苛立ちも、 美しい秋空が一瞬で鎮めていく。 オレンジの上空には冷めたブルーが重なり始めていた。 原付に通勤手段を変えたからといって、 悪いことばかりではないようだ。
家と職場の中間点にあるコンビニに寄り道するのが習慣付いている。 誰か密かに餌付けしているのか、 ここの駐輪場にはいつも黒、 茶虎、 白の三匹の猫が居着いていた。 そういえばこの頃、 茶虎を見ない。
今日もいつものように寄り道し、 窓辺の雑誌コーナーで立ち読みしていると、 腹に響く排気音が聞こえた。 ガラス越しに一台の大型バイクが駐輪場に入って来るのが見えた。 ハーレーのスポーツスターの1200cc。 今の俺にはとても手が届かない代物だ。 乗り手は女らしい。 上下とも黒の革で、 見ようによっては映画 「マトリックス」 のキャリー=アン・モスか、 「あの胸にもう一度」 のマリアンヌ・フェイスフルっぽい。 顔はヘルメットで見えないが、 そう若くはなさそうだ。
ハーレーは駐輪場のちょうど俺のホンダの隣りに停まった。 俺のホンダは十年以上も前に通勤・通学向けに爆発的に売れたモデルだが、 カタログ落ちして久しい。 それでも、 いまだに安い中古車の玉数は多く、 俺には助かる買い物だった。 娘の私立高校進学資金を貯めるため、 我が家は二台あった車を一台に減らし、 俺は半年前に車通勤をやめた。
立ち読みし、 イートインコーナーでコーヒーを一杯啜って帰るのがささやかな楽しみだ。 少し前までは一服もしていたが、 さらなる小遣い捻出と、 当面は健康に働き続ける必要性を感じてついに禁煙にも踏み切った。
今日も本日発売の週刊誌を興味のある記事だけ斜め読みし、 コーヒーを持ってイートインコーナーに入った。 安っぽい椅子に腰掛けると、 ベルトで腹周りが締め付けられた。 これ以上太ってスーツ買い換えになると、 また妻がうるさい。 原付で迎える初めての秋。 冷えた風を直接体に受けるせいか、 軍手をはめた指先が寒い。 というか、 痛い。 かじかんで雑誌のページをめくるのに苦労していた指が、 紙コップから伝わるコーヒーの温もりでようやく感覚を取り戻し始めた。 冬はもっと厚いグローブじゃないと危険だ。
「ハチ!」
突如、 俺の渾名で呼びかけてきた女がいた。 八巻(はちまき)という俺の名字を略しただけのひねりもない渾名で、 学生の頃の仲間内での呼び方だ。 今の職場や生活環境で他人から渾名で呼ばれるほどには、 俺は打ち解けた人間関係を築けていない。 声の主はさっきハーレーで乗り付けた女だ。 学生時代の面影を残しつつも、 過ぎた年月に比例した年の取り方をした顔。 ツーリングサークルで一緒だった宮野真冬だった。
「久しぶりやんか。 凄い偶然やね」
真冬も紙コップを持っていた。 薄く湯気が立っているコップをテーブルの上に置くと、 俺の隣の椅子に座った。
「おお、 ほんまに久しぶりやな。 まだバイク乗りゆうがや。 しかも高級外車やんか」
卒業以来の意外な再会に思わず、 俺のテンションは上がった。
「ううん、 何年も乗ってなくて、 最近ようやくまた乗り始めたとこ。 ハチは?」
「働きだしてすぐに降りた。 けんど最近、 スクーターで復活した」
「ビッグスクーター?」
「いや、 通勤手段以上でも以下でもない原付」
サークルのメンバーはみな、 なんとかバイトして国産中型の中古に乗るのがやっとだった。 「稼ぎ出したらドゥカに乗る」 「俺はグッツィ」 とか言っていた中(うち)の何人が、 その夢を叶えただろう。 本当になりたかったものになれず、 本当に欲しかったものは手に入れられず、 それなりに俺は現実と折り合いをつけた。 多分、 みなも同じようなもんだろう。
それにしても懐かしい。 真冬はサークルでは数少ない女子だった。 気分にムラがあり、 本音で喋っているのかどうか分かりづらい対人距離の取り方をする奴だった。 ふっと親しげな表情を見せたと思うと次の瞬間、 他人を拒絶するような雰囲気を醸す、 ちょっと掴み所のない、 猫のように自由奔放な奴だった。
四年間同じ時間を過ごした単なる仲間というだけではなく、 真冬とは共通の記憶があるはずだった。 お互いに自然と、 なかったことにした一晩がある。
あれは三年生のちょうど今頃だった。 なにかのコンパで二人とも泥酔し、 帰る足をなくした真冬が、 飲み屋から歩いて帰れる所にあった俺のアパートに泊まったことがある。 お互い若かったし、 酔っていた勢いもあってそういう行為に及びかけたのだが……。
服を脱ぎ、 消した明かりの中でも白く綺麗なことが分かる真冬の体を前にしたまさにそのタイミングで、 あろうことか俺は急に酒が回って猛烈な吐き気に襲われた。 トイレに駆け込んだのだが、 そのまま数分意識を失っていたらしい。 ようやく部屋に戻ると、 真冬はとっくに服を着ていた。 しかも俺がトイレに籠もっている間にアパートのそばの自販機まで行っていたらしく、 ポカリスエットを買ってきてくれていた。 「大丈夫? 飲みなよ」。 そう勧められるままに俺はポカリを飲み干すと、 そのまま眠ってしまった。 朝方に真冬が部屋を出る気配がした。 外から鍵を掛けて、 鍵を新聞受けからドアの内側に落とした 「かちゃん」 という音が聞こえたが、 とても彼女のあとを追って見送れる状態ではなかった。 その後卒業まで、 真冬とは普通に顔を合わせてはいたが、 なんとなくその夜の出来事にはお互いに触れないという暗黙の了解ができていた。
「その後、 なにしよった?」
卒業後から近況まで聞きたいことは山ほどある。 勢い込んでかえって、 大雑把過ぎる質問をしてしまった。
「働いて、 結婚して、 別れて、 癌になった」
真冬も笑いながら簡略化して答えたが、 最後が聞き捨てならない重大事項だった。
「癌!?」
「うん。 仕事が滅茶苦茶忙しいところに、 馬鹿な旦那が浮気しての離婚のごちゃごちゃがあって、 気付いた時には結構なことになっちょって、 結局右胸をなくしてしもうた」
あっさりとした重大な告白。 だが、 そうあっさりと言われても返す言葉に戸惑う。 あっけらかんと話すのが真冬らしいといえばらしかった。
「バイク乗って大丈夫なが?」
「体力維持にもなるし、 十年生存率とか考えると気分が滅入るき、 気分転換と闘病の励みと思ってあれ買(こ)うたがって。 ローンが終わるまでは意地でも生きててやろうと思って」
健康は大事だよ。 それと奥さんもね。 ぼそっと真冬は付け足した。 それから小一時間ほど、 かつての仲間の消息や思い出話をした。
コンビニのイートインコーナーというのがもどかしかった。 できれば居酒屋にでも移動したかったが、 そういう訳にはいかなかった。 短くも盛り上がった会話に一段落着いたところで漸(ようやく)、 二人とも重い腰を上げた。 コンビニを出ると、 真冬のハーレーを見せてもらった。 よく磨き上げられていた。
「大型乗りこなすハチもかっこいいと思うよ」
「子供が手が離れるまでは無理やな」
そう言えば、 真冬の口から子供の話が出なかった。 恵まれなかったのか、 事情があるのか、 多分、 触れられたくない所なのだろう。
「万一あたしになにかあったら遺言残しとくき、 これ代わりに乗ってやって」
唐突に真冬が提案してきた。 本気とも、 きつめの冗談ともとれるのが彼女らしかったが、 俺は答えに窮し、 少しの間沈黙してしまった。
「ごめん。 ちょっと冗談にしても笑えんかったね」
真冬が苦笑した。
「それじゃ、 俺は西向き」
「あたしは東」
別れ際に、 連絡先代わりにお互いのフェイスブックのアカウントを教え合った。 真冬も本名で登録しているということだった。
駐輪場からは真冬が先に出ていった。 走り去っていく真冬の背中を見ながら、 スマートフォンで早速彼女のアカウントを検索した。
まるでヒットしない。
漢字表記、 アルファベット表記、 それらしい名前すべてが別人のものだった。
駐輪場の隅には、 例の居着いている猫が二匹だけ身を寄せ合っていた。 やはり今日も茶虎がいない。 そういえば茶虎は結構な年だ。 死期を悟った猫は姿を消すという話を思い出す。 真冬の猫のような雰囲気が頭をかすめる。 嘘をついた?
俺は正しいアカウントを伝えた。 ただし、 こうなると教えたことを後悔する。 真冬のことだから遺言の話が冗談ではなく、 本当に譲ると一方的に連絡してくる可能性がないとは言えない。
真冬の走り去った方向をもう一度見る。 月光で明るい空には雲一つ見えず、 今夜は何物も月の輝きを邪魔しそうにはなかった。
不吉な知らせとともにあのハーレーが俺の元に来たりしないよう、 心から願った。